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IBM野州・大和・藤沢事業所OBによる辛口トーク

IBM野州・大和・藤沢事業所OBによる辛口トーク
(古き良きテクノロジー・カンパニーのIBMの崩壊と短期利益追求のIBMのサービスカンパニー化)


この新春、我々(元IBM野州事業所・野州研究所半導体技術開発担当スタッフマネージャー、元IBM野州事業所・製品業務開発担当マネージャー、元IBM野州事業所・半導体テスト技術担当マネージャー、元大和事業所・大和研究所エントリーシステム開発担当スタッフマネージャー、元藤沢事業所・大和研究所LED(HDD)開発担当マネージャー、元IBM藤沢研究所ワークステーション開発を経て元日本IBM箱崎事業所・産業営業本部・マルチメディア企画プロジェクトマネージャー)5名の元IBMerは、滋賀県琵琶湖に近い野州駅に降り立った。そして今は無き世界に偉容を誇ったIBM野州事業所、格下企業の京セラの看板が目立つ正門の前に立った。

IBM Yasu_01a
IBM野州事業所(研究所、工場、1989年)

1994年に米国IBMが赤字に陥ってからのIBMは激変した。IBM生え抜きのCEOに代わって、ビスケット屋の「コンピューターのコの字」も分からぬガースナーという男が再建の名の下に仕切るようになった。世界各国の研究所や事業所は次々に閉鎖されていった。大型機の開発・生産拠点であった米国ポキプシーでも大リストラが断行され、解雇され銃を弄る事の多くなった父親が怖くて家に帰れない子供達まで出る深刻な事態となった。研究者やエンジニアそして生産要員は出社するとガードマン2名に挟まれリストラ推進担当マネージャーの部屋に連れて行かれ、解雇が告げられ、「私物は此方でまとめて送る」と言われて、「即時帰宅するように」と命令され、駐車場の今乗ってきた自分の車のところまでガードマン2名に挟まれて退去を命じられた。連日大勢のベテランや若手がそのようにして追われていった。筆者はそれを何度も見てきた。

日本もその影響を免れる事は無かった。日本IBMは営業の組織であって、我々技術部門は日本にあっても日本IBMの指揮下には無く、米国IBMの各ディビジョンの傘下にあった。したがって、日本IBMが大幅な黒字決算であっても関係なく、我々技術部門は赤字米国のリストラの影響をモロに受けたのだった。


日経の記事を紹介しておく。

「半導体から本体まで世界唯一の一貫生産」
日本IBMが「栄光の野洲」を京セラに売却
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20050830/220293/

 京セラが日本IBMから同社野洲事業所の土地と建物を買収すると発表した。だが、京セラの稲盛和夫名誉会長が、退任に伴う退職慰労金6億円全額を母校鹿児島大学などに寄付するというニュースバリューには勝てず、ほとんど報道されずじまい。そのため、野洲工場に10年以上も務めた元幹部でさえ売却を知らなかった。「時の流れの音がする感じだ。米IBMのポケプシー(ニューヨーク州にあるメインフレームの中心工場)には絶対に負けるな、と技術者たちが額に汗した場所がなくなった。寂しい限り」と元幹部は話す。

 日本IBMや富士通とメインフレーム覇権を競った日立製作所の元幹部も感無量だという。「野洲と富士通の沼津、そして日立の神奈川は最新鋭の設備を備えた日本のコンピュータの象徴的な工場だった。ポケプシー工場を目標に、3工場間で品質や歩留まりなどを競いながら、名機を世に送り出してきた」。

 しかし、野洲工場は既に10年も前に、米IBMのルイス・ガースナー前CEOのグローバルという名の“適材適所”戦略により、メインフレーム生産の火を落としている。欧米への輸出機を含め90年代後半に年間4000億円強のメインフレームを作っていた富士通沼津工場も時の流れに勝てず、ハードの生産を中止した。今では、一部のソフト開発と社員教育の場になっている。現在でもメインフレームを生産しているのが日立の神奈川工場だ。富士通と同じか若干上回るメインフレームの生産額を誇ったが、日立ブランドに加え期待したIBM向け中型メインフレームのOEM(相手先ブランドによる生産)がさっぱりで、2005年度は富士通同様390億~400億円のメインフレーム生産見通しである。90年代後半の10分の1に落ちている。

 日本IBMの野洲工場の竣工は1971年だ。まずプロセッサやI/O用のプリント基板を作ることから始まった。本格的なプロセッサ生産は77年発表の大型機3033/3032/3031から。ポケプシー工場と同時の78年4月に四国電力に向け3033を初出荷した。米本国に遅延なく出荷できたのは野洲工場の高い技術力のたまものだ。出荷直前には本体だけで10億2000万円もする3033が40台ほど並びフロアーの4割を占拠。その様は壮観。3033の主記憶は8Mバイト、性能は4.8MIPSである。

 野洲が最高潮だったのは81年出荷の308Xから3090、9021へと続くECLプロセッサ時代。この時分には3380/3390大型ディスクの心臓部HDAから完成品の製造までを藤沢工場から引き継いだ。308XからはTCM(熱伝導モジュール)と言われるプロセッサモジュールを生産。続いてメモリーチップに着手し、文字通り半導体からプロセッサまでの世界で唯一のコンピュータ一貫生産工場として野洲は絶頂期にあった。現在の天皇を含め、累計20万人弱が訪れた。特に営業は毎日のように、半導体から最終製品までの生産工程を「コンピュータの基礎知識」というプログラムで案内した。野洲に来ればコンピュータが分かったのである。

CA03_12b_TCM Structure
超大型機の心臓部TCM(Thermal Conduction Module)の構造

CA03_12a_TCM0.jpg
30乃至40層以上のMLC基板上に百数十個のバイポーラー論理LSIを実装。ヘリウムを充填しピストン構造により半導体チップで発生する熱を伝導させ水冷プレートで吸収する

CA03_12c_Yasu TCM RR Process
TCM生産工程(高度なECリワーク及びリペアを可能にするTCM設計)

CA03_15_Remembering TCM Technology Dev
米国IBMポキプシーにてTCMの開発に携わった大崎勝彦(JPA,野州研究所、NII事業本部先進システム開発部長を経てベンチャー(デジタル・メディア・ラボ株式会社(DML))へ一足早く1995年に転進。Ph.D.)(注1)

CA03_16a_FS3081.jpg
超大型機システム3081

CA03_16b_FS3083.jpg
超大型機システム3083

 1988年に、IBM野州研究所の大崎勝彦は世界に先んじて、従来手法とは発送を全く異にするローパワー・テクノロジー開発を唱え、シリコンPC或いはバッテリーPCの呼称で、後のThinkPadを大和研究所の盟友・岩見知行と共に創出した。政治的なバトルや妨害を乗り越え、数々の新技術を生み出し、ThinkPadの原器である、N51SX(Micro Channel Architecture,ThinkPad 700, 700C, 720, 720Cに至る全機種の基盤モデル)、N51SLC(内製MPU搭載、後のBlue Lightening),N27SX(世界最大サイズ10.4インチ・最多色4096色カラーTFT搭載)を1991年に世に送り出し、その後継機をThinkPadと呼称を変え1992年にCOMDEX Fall92にて700CがMVP賞を受賞し一気にノートPCでの地位を不動のものとした。N51SXから720Cまで共通チップセット・SPICE-IIとMCAによる。ThinkPadには多くの要素が関係していた。IBM野州事業所は総力をあげて、どこにでも大崎の顔があったが、SPICE低消費電力チップセット、カラーTFTパネル、液晶ドライバーチップ、LED(Low End DASDの略であるが、HDDのこと)チップセット(アナログ・デジタル混載の信号処理プロセッサー、サーボ制御、INTFチップ)、液晶電子回路基板及び実装、ThinkPadシステムボード及び実装、各種オプション、LED電子回路基板及び実装などに取り組み、更には不揮発性メモリーSIPPOS、FPGA、Solid State Storage、DRAM混載MPU,動画像圧縮エンジン、Video on Demand、IMPPプロセッサー、PowerPCベーズのワークステーション各種システムボード、画像認識応用関連生産設備開発、各種自動試験装置、半導体チップの外販(その第一号も大崎勝彦が開発したもの)等によって、IBM野州事業所は時代の先端を行く多様な製品群に溢れていた。

CA05_26_ThinkPad.jpg
ThinkPad原器N51SXからThinkPad720Cまで

CA05_52a_ThinkPad 720C 1993
ThinkPad 720C (1992~1993)

CA05_09_My ThinkPad 1988-1993 R
同上。750C,755C及びDocking Stationも含む

CA05_15a_WAFERS_2.jpg
6インチ半導体Wafer

CA05_15b_BIG_DISK.jpg
8インチ半導体Wafer

CA05_16_Spice Mozaic HST7IBM4
各種先端半導体チップ(ThinkPad,LED,LCD,WorkStation,SSS,SIPPOS,FPGA,IMPP,PowerPC)

CA05_17_CHIPS_3.jpg
各種MPUモジュール

CA05_43c_SYSTEM_B.jpg
ThinkPad原器を含むシステムボード各種

CA05_61_ThinkPad System Boards
各種高密度システムボード

CA05_32f_HDD Progress
3.5インチLEDの高密度化

LED Technology Projects in DD#3 Yasu Lab
2.5インチLEDの高密度化、GMRヘッド及びPRDF信号処理技術

CA05_33a_104 TFT 4096 Color Panel
10.4インチ4096色世界最高峰カラーTFTパネル(N27SX搭載、1991年)

CA05_33b_104 TFT 4096 Color Panel
同上パネル。IBM液晶の原器

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Si-CMOS超高精細ライトバルブチップ開発(1995年)

CA10_03b_SiLCD_RPD_01.jpg
同上チップによるリアプロ型2000X2000解像度ディスプレイ(1995年)

CA10_03a_SiLCD_RPD_03.jpg
同上ディスプレイ画面

CA10_04_VLSI_LC2.jpg
同上チップによるプロジェクター(1280X1024、1998年)

 しかし、サーバーの台頭に伴うメインフレームの地盤沈下により、プロセッサ本体や大型DASD(磁気ディスク装置)がなくなり、また元々IBMで生まれたPC技術の拡散とノウハウの流出により、PCは膨大な数が競合メーカーによって生産されるようになって、コスト競争の激化でIBM野洲事業所の体力は削がれるようになった。そして、1994年の米国IBMの赤字である。

 事業は分割され売り払われた。半導体は敷地3分の1と共にエプソンに、TFTは台湾のチーメー電子に、プリント基板は京セラに、最後の有機ELはチーメーおよび米IBMから京セラに切り売りされ、IBMは店子14社を含めた土地建物の管理会社的存在になってしまった。そして今回、野洲の残り3分の2(約20万平方メートル)を京セラに明け渡す。京セラは有機ELの拠点にする計画だ。
 
 IBM野州事業所の歩みについては下記URLを参照されたい。
 http://cgi.oyagamo.jp/view17/view17.cgi?soff=1&no=0

 栄枯盛衰は世の常である。しかし、野洲の機能が1枚ずつはがされるのを阻止できなかったのは日本IBMの経営陣に力がなかった結果でもある。HDDが日立に売られ、ThinkPadを含むパソコンが中国レノボに売られ、今や日本IBMは「開発・製造を売ったら何が残る」と言われる“メーカー”の体だ。7月29日に大和事業所で大歳卓麻社長が自ら「IBM先進テクノロジと日本IBMの開発・製造戦略」を話すという。枯れ草の上で今更何をしようというのだろうか。

Yasu and Fujisawa
IBM野州事業所と藤沢研究所

IBM Fujisawa
IBM藤沢事業所・工場

IBM Yamato2
IBM大和事業所・研究所

全くその通りである。

単なる短期的視野での金儲けを、ベテランの多くを解雇し、貴重なテクノロジーを売り払い、サービスカンパニーと称して、志向したのである。

IBMは伝統的に、日本企業が採用する以前から、各国で終身雇用を行っていたが、これを方針転換しリストラが開始され、最盛期には全世界で40万人いた社員の内、18万人解雇して22万人とした。その後は、2010年では41万人にまで激増し、そのうちの13万人はインドIBMであり、チェンジニア(システム開発やソフトウエア開発ではなく、コードの変更屋)事業への転換の実態が現れている。そして、2010年5月にIBM幹部から「2017年までに、全世界で40万人いる従業員から30万人を解雇して正社員10万人体制とし、プロジェクト毎に契約社員を雇用するクラウドソーシングの雇用形態に移行する」というIBMの本音が暴露される事件が起きた。

杜撰な「選択と集中」の基準による、「コア事業」への集中と、「非コア事業」の売却が行なわれた。愚かにも、ネットワーク・コンピューティングの重要性が予見されていた中で、1998年にネットワーク事業を売却してしまった。「非コア事業」とされたパーソナルコンピュータ事業をあろうことかThinkPad他のブランドごと中国へ2005年に、企業向けプリンター事業を2006年に、法人向けアプリケーション・パッケージ・ソフトウェアのビジネスとして残っていたPLM事業(CATIA, ENOVIA)を2010年に、それぞれ事業部門ごと(製品、施設、従業員など)会社分割し売却してしまった。IBMの伝統である独自システム、独自OS、独自開発業務ソフトウエアを放棄し、外注によるLinuxを含むSI事業が主体となっていった。

他方で、1995年、Lotus NotesのLotusを買収、以後、運用管理ソフトウェアのTivoli、データベースのInformix、ソフトウェア開発ツールのRational等を買収した。そして、1999年、IBMは今後はアプリケーションパッケージは開発せず、ミドルウェアまでに集中し、各業務に強いアプリケーション・ベンダーとパートナーシップを組んで、ユーザーにソリューションを提供する、要するに下請け任せの管理屋となることを宣した。更に、2006年にはコンテンツ管理ソフトウェアのFileNet、2007年にはBIツールのCognos等を買収した。コンサルティング等のサービスにも流動化し、2002年にプライスウォーターハウスクーパースを39億ドルで買収した。どれもこれも、疑問符の付く買い物ばかりであり、現状重荷と化していることは当然だ。

皮肉な事件も起きた。2009年10月16日、ハードウェア事業の総責任者で次期CEOの有力候補の一人と見なされていた上級副社長のロバート(ボブ)・モファットが、サン・マイクロシステムズとの買収交渉や仕入れ先のアドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)などに関する情報をヘッジファンドに漏らしたというインサイダー取引への関与により、連邦捜査局に逮捕・起訴され、モファットはその容疑を認めた。幹部社員のモラールも地に堕ちたものである。


(注1)大崎勝彦氏はIBM内では、その型破り且つユニークな発想と行動で、敵は多かったが極めて多くの実績を残した優秀な技術者・研究者であった。我々は敵ではなかったが、よく喧嘩したものの、彼を尊敬していた。敬意を込めて、我々は彼を「会長」と呼んでいた。IBM在職中からベンチャー時代に至るまで、学会や産業界では有名で、マスコミには多数回登場し、TV朝日のニュースステーションを始め経済・産業番組にも多数出演しているので、匿名にする意味は無く同氏のみ実名で登場する。CSK創業者の故大川功氏が初対面で大崎氏にぞっこん惚れ込んで数十億円の研究開発資金を出した話は有名だ。他は例外を除き匿名登場である。我々5人(組)も匿名執筆である。実社会で横行する自称・詐称・パクリ(IBMとて例外ではない)を暴露する辛口トークの為である。


(元IBM野州事業所・製品業務開発担当マネージャー)


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プロフィール

IBM-APTO-OB97

Author:IBM-APTO-OB97
かって栄光のIBM-APTOに在職(野州、大和、藤沢各事業所・研究所)し、現在は国内外でハイテクベンチャーを興し、最先端情報&バイオ科学&テクノロジーに挑戦し続けるOB5人による辛口トークヘようこそ!

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